2017年1月4日

 去年は何度も死にかけて、そのたびにヒトの生や死について考えた。シベリア抑留者の労苦を拝聴する機会もあり、頭のなかはドストエフスキーのことでいっぱいになってしまった。
 私は世界文学をドストエフスキーやカフカから読み始めたので、なんだか、振り出しに戻るような気分(※1)で、『悪霊』を読んでいる。好きな作家のひとりに加えたくなるかもしれない、という期待もある。

 私は無神論者で無宗教者で、神さま、あの世、幽霊、そういうたぐいの存在を信じていない。子どものころはプラネタリウムで人工の星々を見上げながら聞く神話に胸をときめかせていたし、神話の神々と自分との(遠く離れてはいるけれど)つながりのようなものに心が満たされた感覚も記憶している。
 だから私は虚構としての力は否定しない。特定の宗教を信仰している人々の信仰心を疑うこともない。舗道に十字架が落ちていても、拾いあげてごみ箱に叩きつけるように捨てるなんてこともしない。落とし物は交番へ届けるべきだ。
 それに私がそういうたぐいの存在を信じない理由は、一度もその手の存在を見たこともなければ触れたこともないからで、ある日、この世界に神さまが現れて、信じるに足る条件が提示されれば、そのときはじめて、受け入れようと考えている。まあ、あり得ない話だ。

【追記】
 虚構に対する「寛容」の難しさは、こちらが一定の理解を示していても、それでは足りないと、虚構の信仰者たち(※2)から、たちの悪い挑発を受けることがある、という事実だ。


※1 大江健三郎さんの「文学再入門」という言葉に励ましを得ながら読むことも可能だが。
※2 「虚構の信仰者たち」とは、言葉どおり、「虚構」を宗教のように信仰している人々のことだ。たとえば、文学。




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