2017年1月7日

 ウィリアム・フォークナーが作家や作品について語る音声と、それを書き起こしたものを載せているサイトを見つけた。
 ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』に登場するセアラ・ギャンプについて、「私の好きな人のひとりです。毎年、冬になると、ミセス・ギャンプと出会うために、再読します」というような発言をしていた。フォークナーは、「キャラ萌え」的な読みかたをする作家だ。
 フォークナーが影響を受けたもの、バルザック、ドン・キホーテ(セルバンテス)、ドストエフスキー、トルストイ、ディケンズ、旧約聖書、シェイクスピア等、あらためて考えると、生き生きとして勢いのある作中人物を描く作家が多い。彼自身、『アブサロム、アブサロム!』のトマス・サトペンや『響きと怒り』のジェイソン・コンプソン4世など、読む者の脳みそに焼き印を押しつけるような強烈な印象を与える人々を生み出した。それは、フォークナーから影響を受けた作家たちも同様だ。

 ウィリアム・フォークナーとドストエフスキーを繋ぐ線を彼自身ので得られてよかった。

2017年1月4日

 去年は何度も死にかけて、そのたびにヒトの生や死について考えた。シベリア抑留者の労苦を拝聴する機会もあり、頭のなかはドストエフスキーのことでいっぱいになってしまった。
 私は世界文学をドストエフスキーやカフカから読み始めたので、なんだか、振り出しに戻るような気分(※1)で、『悪霊』を読んでいる。好きな作家のひとりに加えたくなるかもしれない、という期待もある。

 私は無神論者で無宗教者で、神さま、あの世、幽霊、そういうたぐいの存在を信じていない。子どものころはプラネタリウムで人工の星々を見上げながら聞く神話に胸をときめかせていたし、神話の神々と自分との(遠く離れてはいるけれど)つながりのようなものに心が満たされた感覚も記憶している。
 だから私は虚構としての力は否定しない。特定の宗教を信仰している人々の信仰心を疑うこともない。舗道に十字架が落ちていても、拾いあげてごみ箱に叩きつけるように捨てるなんてこともしない。落とし物は交番へ届けるべきだ。
 それに私がそういうたぐいの存在を信じない理由は、一度もその手の存在を見たこともなければ触れたこともないからで、ある日、この世界に神さまが現れて、信じるに足る条件が提示されれば、そのときはじめて、受け入れようと考えている。まあ、あり得ない話だ。


※1 大江健三郎さんの「文学再入門」という言葉に励ましを得ながら読むことも可能だが。

2017年1月4日


久しぶりに絵を描いた。絵に対する関心が年々、薄れていく。

2016年10月26日

新宿にある平和祈念展示資料館でシベリアに抑留された元兵士の労苦を聞いた。




祖母からも戦時中の話を聞いた。



2016年9月21日

 日本の近現代史についてなにか学べるだろうと思い、この前、靖国神社を見てきた。右翼風の人たち、外国人の方々、若い女性に、小さなお子さんを連れた保護者の方々、そのほか、様々な人がいた。
 広辞苑で参拝という言葉を調べると、社寺に参って神仏を拝むこと、とあるから、その定義だと、私は参拝客ではないのかもしれない。


(※ 行山流舞川鹿子躍)


 二拝二拍手一拝──拝殿で手を合わせる参拝客から離れて遊就館を見学。


 館内は広くて展示品ひとつひとつの解説文を読んでいると、私の見学時間では足りないことに気づいた。

(※ 玄関ホールに展示された零式艦上戦闘機 52型)

 機会があれば、また見学したい。

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